【平成プレイバック】平成31年間の思い出に残っている出来事・ニュースを個人的にチョイス!part.1《平成元年~10年》
今週のお題「平成を振り返る」
「平成」もあと1週間ほどで終りですね。5月からは新元号「令和」として新たな時代の幕開けとなります。約30年と4ヶ月という平成の時代を振り返ってみると、僕が個人的に一番感じるのは、IT技術が著しく進歩して生活がとても豊かなものになったと思います。今こうして書いているブログだって、昭和の時代にはなく平成になってからできたものですし、様々なものが紙から電子に移り変わっていた時代でもありました。
前置きが長くなりましたが、個人的に僕なりに平成を振り返る企画として「平成プレイバック」というカテゴリーを作りました。僕の独断と偏見な内容になってしまうかもしれませんが、その辺はご容赦ください。
平成プレイバックの最初の投稿として、平成元年~平成31年までの31年間で各年に起きた印象的な出来事・ニュースを1年1つずつピックアップしたいと思います。
- 平成元年(1989)「消費税の導入」
- 平成2年(1990)「マンデラ氏釈放」
- 平成3年(1991)「千代の富士引退」
- 平成4年(1992)「毛利衛エンデバーで宇宙へ」
- 平成5年(1993)「皇太子・雅子さまご結婚」
- 平成6年(1994)「記録的猛暑と水不足」
- 平成7年(1995)「阪神大震災」
- 平成8年(1996)「病原性大腸菌O157」
- 平成9年(1997)「酒鬼薔薇聖斗」
- 平成10年(1998)「和歌山毒物カレー事件」
平成元年(1989)「消費税の導入」
4月1日より日本で初めて消費税が導入されました。導入時の消費税率は3%です。この消費税導入に伴う間接税の整理によって、パチンコ場等などの娯楽施設を対象とした地方税の娯楽施設利用税、トランプ類税、物品税等などの間接税が廃止され、酒税やたばこ消費税などが改定されました。税の用途は、社会保障と少子化対策として規定されています。(2012年法改正)
平成2年(1990)「マンデラ氏釈放」
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ氏は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士です。南アフリカ共産党中央委員、アフリカ民族会議議長(第11代)、下院議員(1期)、大統領(第8代)を歴任しました。若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受けてしまいます。しかし27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放されました。
平成3年(1991)「千代の富士引退」
千代の富士は北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士で第58代横綱です。1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位の記録を達成しましたが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場、翌場所も全休してしまいました。復帰場所となった1991年5月場所は初日に新鋭・貴花田(のちの貴乃花)と対戦しましたが、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れてしまいます。翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑みましたが、現役時代で唯一なったとったりを受けて完敗してしまいます。この貴闘力戦の取組を最後に、その日の夜に九重部屋にて緊急記者会見して現役引退を表明しました。その会見の冒頭に「体力の限界。気力もなくなり、引退することになりました。」と呟いたのは有名です。
平成4年(1992)「毛利衛エンデバーで宇宙へ」
毛利衛さんは北海道出身の宇宙飛行士、宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙環境利用システム本部有人宇宙活動推進室長、日本科学未来館館長、京都大学大学院特任教授、東京工業大学大学院総合理工学研究科連携教授、公益財団法人日本宇宙少年団団長です。9月12日から9月20日までスペースシャトル「エンデバー」にペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として搭乗し、秋山豊寛さんに次ぐ2人目の日本人宇宙飛行士となりました。また、日本国籍保有者として初めてスペースシャトル計画に加わった宇宙飛行士でもあり、帰還直後にテレビカメラの前で「宇宙からは国境線は見えなかった」とコメントしたのが印象的です。
平成5年(1993)「皇太子・雅子さまご結婚」
6月9日に日本の皇居にある宮中三殿において、国事行為として行われた皇室の儀式「結婚の儀」によって、日本の皇太子・徳仁親王さま(当時33歳)と小和田雅子さま(当時29歳)はご結婚し雅子さまは皇太子妃となり、日本中が盛大に祝福しました。そして間もなくお二人は「令和」の天皇・皇后となります。
平成6年(1994)「記録的猛暑と水不足」
日本各地で春から少雨の傾向が続き、梅雨時期の降雨も平年の半分以下でした。7月から8月にかけては記録的な高温の日々が続き、西日本から関東地方までの多くの観測点において観測開始以来の最高気温を記録しています。晴天の日々が続き、多くの地域において降水量が平年の30~70%程度にとどまりました。このため特に九州北部、瀬戸内海沿岸、東海地方を中心とした地域の各地で上水道の供給が困難となり、時間指定断水などの給水制限が実施されました。影響は1,660万人におよび、農作物の被害は1,409億円にのぼりました。
平成7年(1995)「阪神大震災」
1月17日5時46分52秒、兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡を震源として、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生し、近畿圏の広域が大きな被害を受けました。特に震源に近い神戸市市街地の被害は甚大で、当時東洋最大の港であった近代都市での災害として、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えました。犠牲者は6,434人に達し、第二次世界大戦後に発生した地震災害としては、東日本大震災に次ぐ被害規模です。戦後に発生した自然災害全体でも、犠牲者の数で伊勢湾台風の5,098人を上回り、東日本大震災が発生するまでは最悪のものでした。
平成8年(1996)「病原性大腸菌O157」
7月12日、大阪府堺市で学校給食に起因する、腸管出血性大腸菌O157が原因の「堺市学童集団食中毒事件」が発生しました。児童7,892人を含む9,523人が、下痢や血便症状を罹患、3人の児童が死亡し、大人にも二次感染が広がりました。
平成9年(1997)「酒鬼薔薇聖斗」
兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の中学生による「神戸連続児童殺傷事件」が衝撃的でした。犯人の少年は自身を「酒鬼薔薇聖斗」と名乗りました。数か月にわたり、複数の小学生が被害を受け、2名が死亡し、3名が重軽傷を負いました。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴った点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件でした。また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えました。
平成10年(1998)「和歌山毒物カレー事件」
7月25日夕方に和歌山県和歌山市園部で発生した毒物混入・無差別殺傷事件です。地区で行われた夏祭りにおいて提供されたカレーに毒物(ヒ素)が混入され、カレーを食べた67人が中毒症状を起こしうち4人が死亡しました。被疑者として逮捕・被告人として起訴された無職の女性・林眞須美は無罪を訴えますが、2009年には最高裁判所にて死刑が確定しました。